死ぬときに後悔すること ~ 宗教・哲学編 ~
こんばんは。
遠藤です。
今回も「死ぬときに後悔すること」の続きを紹介します。
このシリーズは今回がラストです。
今日は、「宗教・哲学編」をお伝えします。
「自分が生きた証を残さなかったこと」1つだけ紹介します。
何のドラマもない平凡な日常を送っている、また何も社会や他人に貢献できておらず劣等感を抱いている人はぜひ本記事を見ることをお勧めします。
よく考えてみてください。生きていられるだけでも、十分可能性はあります。まだ終わってはいません。
今後自分はどうやっていきたいか、また世間に何かできることはないか、じっくり考えてみてください。何もできないことに劣等感を抱くのではなく、将来の可能性に視点をシフトしてください。そうすることで、「生きた証」を残せる可能性が高まるのではないでしょうか。
では、本題に入ります。
と、その前に、
前回の記事を載せておきます。気になる方はこちらの記事も閲覧して見てください!
↓↓ 以下の本をもとに、記事を執筆しています。
○自分が生きた証を残さなかったこと
私たちも何か「生きた証」が欲しいと思いませんか。多くの人は、このような希望をもっているかと思われます。
「生きた証」とはなんだろか。
例えば、女優がとる「アカデミー賞」、スポーツ選手でいえば「金・銀・銅メダル」、著者なら「ベストセラー本」といった歴史に残るようなことでしょうか。
おそらく、ほとんどの方はこのような世間に大きく貢献してきたものを思い浮かべるかと思います。
しかし、「生きた証」を作るためにも、このような偉大なものでなくても問題ないと思います。
もっと身近なものでも大丈夫です。
自分が家族を幸せにしたこと、自分は他人にやさしく振舞ってきたこと、また社会のために毎日清掃してきたこと、などで構いません。
よく考えてみますと、こうした行為は「貢献」に繋がっています。
例えば、他人にやさしくすることは「幸せを与える」ことと同じです。町の清掃をすることは、みんなが快適に使えるようになりますので、とても立派な行為ですね。
このような身近なものでは、十分に「自分が生きた証」になると私自身考えています。
「自分が生きた証」を残すためにも、簡単なことから始めてみてください。
寄付する、目の前の人を手助けする、ゴミ拾いなど何でもいいです。
他人のため、社会のために活躍している方は、とても素敵な方々です。
いかがでしたか。
簡潔に紹介したので、中身がやや薄くなってしまいましたが。
「自分が生きた証」を残してみたくなりませんか。
また、「他者・社会への貢献」を例にあげましたが、希望が見えてきましたでしょうか。
もし本記事がお役にたったと思ってくださったのであれば、うれしく思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
今日はこの辺で終わりにします。
また次回の記事でお会いしましょう。
気になる方はこちらも閲覧してみてください。
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